足跡(大正5年)

年月日記事主催出典
大正5年
(1916)
 
3月18日 地洋丸にて、横浜へ来日。25歳(23,24歳説あり)。
 
  
3月28日 国民飛行会(長岡外史会長)主催の歓迎会に出席。
 
  
4月1日 千葉県国府台練兵場に於いて機体組立て開始。
 
4月4日 組立て完了。
 
  
4月5日(水) 千葉県国府台練兵場にて試験飛行。
午後2時、白い作業服を着て機体に乗り込み、午後2時40分、離陸。高度600mにて宙返り3回、螺旋降下2回、横転1回。垂直降下後に着陸するも、その時右車輪を小破。修理後、さらに発動機を付替え、午後4時20分離陸、宙返りなどを行って、4時35分に着陸。見物人は数千に達し、隈元中将、木下少将、追浜海軍基地よりの飯倉大尉、山本中尉、桑原中尉ら。
 
東京朝日新聞
4月6日(木) 昨日に続き、千葉県国府台練兵場にて披露かたがた予備飛行。
本日は背広にてハンティング帽を逆さに被り、正午に離陸。逆転、宙返りなどを行い、15分の飛行。午後1時20分にも離陸し、同じく15分の飛行時間。
 
東京朝日新聞
4月7日(金) 昨日に続き、千葉県国府台練兵場にて予備飛行。
昨夜からの徹夜作業にて朝の5時に組み立てあがった新飛行機を披見。見物人は1万人にも達し、その中には所沢からの徳川大尉、澤田大尉、坂本中尉らも。
飛行は古い方の飛行機で、正午に離陸。宙返り10回、螺旋飛行2回など。この後、明日に備えて青山練兵場までの飛行予定だったが、10mの向かい風のため、貨物自動車にて運搬。
 
日記から、東京朝日新聞
4月8日(土) 午後、東京府青山練兵場にて飛行大会、2回飛行。
観客12万人以上、その中には奥元帥、島村軍令部長、箕浦逓相、加藤前外相、仙波・長岡両中将、金子少佐、徳川大尉らの海陸軍飛行将校、尾崎行輝、坂本寿一氏らの各飛行家。伏見宮、山階宮、華頂宮、淳宮、高松宮両皇子の台臨あり。
大正5年4月8日 青山練兵場にて尾崎行輝氏と握手 紺地の背広に十数個の金メダルを輝かせながら鳥打帽を逆さに被り、午後1時55分離陸。観客の頭上を旋回しつつ高度800mに達し、翼上の仕掛け花火を点火して黄煙をなびかせつつ宙返り、逆転(連続9回)、螺旋降下、高度300mの高度から再度逆転し、螺旋降下して2時10分着陸。着陸後、櫛引弓人支配人とともに両皇子の前に召されて握手を賜る。また、伏見宮、他宮からも握手、お言葉、金一封のご下賜金を賜る。
 午後2時45分より3時半まで豆自動車5台による競争。
 午後4時、二回目の飛行。1,200mの高度にて6回の逆転などを行った後、機上の花火を利用して「P2」と描き、両皇子に表敬。螺旋降下、逆転(4回)、横転、決死降下から、4時20分に着陸。

 飛行後の帝国ホテルでの入浴後、「表敬のためP2を描いたが、1000m以上の高空においても非常に気流の変化が多く、始終機体が動揺するので完全に描くことが出来なかった。一体、東京の地は山岳地に遠いので気流の返還が少なかるべきはずであるが、300mから800mくらいは実に気流の変化が多い。このような変化は自分の郷里のフォートウェインの山地でもいまだ経験せざるところである。かかる悪気流の空中で日後述を習得したなら世界の何れの地でも大丈夫であると感じた。尚、晴天であったため、1200mの空中から俯瞰した東京全市は、恰も大公園を望むがごとき美観を呈した」と語る。
 日記から、東京朝日新聞
4月9日() 東京府青山練兵場で、2回飛行。
日曜日ということで前日以上の人出、「電信柱にも花が咲く」の新聞記事。閑院宮、東久邇宮、山階宮、李王世子らの台臨あり。
 尚、予定されていた夜間飛行は、警視庁の許可が得られず中止。
大正5年4月9日 青山練兵場  午後12時50分、腹にアートスミスと書いた赤い豆自動車に載って鳥打帽を振って観客に挨拶。午後2時20分離陸、場周囲を三周し高度1,300mに上昇。2時30分、両翼後方に付けられた花火より黄煙を引きつつ宙返り7回、横転5回、降下して高度150mからの宙返り2回、横転を行い、2時35分着陸。長岡中将から花環を贈られ、各皇族よりの握手を賜る。その後、自動車にて場内を一周。
 豆自動車競争後の午後3時50分、2度目の離陸。1,500mの高度にて4回の宙返り、TOKIOを黄煙にて描いた後に急転直下し、4時5分、そのまま着陸。
 
 日記から、東京朝日新聞
4月10日(月) 東京府青山練兵場で、1回飛行。
この日は朝からの烈風が吹き、青山原頭で秒速32mの中飛行を強行。
 午後3時飛行準備にかかり、ワイルド、カイゼル両技師の点検後、飛行眼鏡をかけて、3時20分に離陸。離陸後12分にて高度800mに達し、風向に逆らって高度600mに落として宙返り、逆転3回、螺旋降下、逆転(2回)、決死下降にて、3時35分着陸。長岡中将、田中館博士らは「わが飛行界の大恩人」と叫びながら抱きつき、田中館博士は嬉し涙を零して「世界記録を破った」と激賞。
 尚、カイゼル技師は権田原側のトラックにて豆自動車を運転中、砂塵のため方向を誤り、散水中の赤坂区散水夫と衝突し、左足を骨折させる。技師は治療代・見舞金を贈呈し示談に。
 
 日記から、東京朝日新聞
4月22日(土) 鳴尾競馬場で飛行大会の予定も、雨のため順延。
 
神戸新聞、神戸又新日報
4月23日(日) 鳴尾競馬場で飛行大会の予定も、空模様悪く順延。
 
神戸新聞、神戸又新日報
4月24日(月) 天気晴朗、風凪いだ(それでも地上で風速3m/s)の兵庫県の鳴尾競馬場で飛行大会。
観客3万、2回飛行。
大正5年4月24日 鳴尾 10時26分、離陸。観客に右手を振って上昇、高度4,000フィートに達した後に宙返りを連続1回、続いて宙返り連続14回。次に機首を下げて「木の葉落とし」で高度を2,000フィートに降り、横転、宙返り、垂直降下で1,000フィートまで降りてから「逆落とし」にて500フィートに更に高度を下げ場内を一周、最後はそこから100フィートまで垂直降下し、空中滑走にて10時46分。着陸。飛行時間22分。
 飛行後、「上空はかなり寒さを感じ風やや強かりしが、努めて風邪に向かって飛行しこれを利用して種々の技を演じたるが差して困難も感じ得ず。また4,000フィートの高度にて白雲を突破しその上に出て見渡したる時、六甲山は眼下にありてその後方の山々は海霞みて見えざりしも、神戸と大阪を左右に眺めいかなる画工の麗腕を以ってするも到底描き出すを能はざる美観にて、未だ斯かる愉快な飛行を行いしとなし。」と記者に語る。また女優の三笠萬里子氏(元聚楽館で横田指菜子)から花輪を贈られ、握手。
 用意したもう1台の新しい機体で午後の飛行に臨うとするも、牽引力試験でやや不完全箇所を発見、午前と同じ機体で、風邪がやや強くなった午後3時52分、喜色満面にて両手を離し観客に答えて、離陸。両手を振りつつ上昇しつつ場内を3周。高度3,500フィートに達してから、双翼より二條の白煙を曳いて、逆転7回。2,000フィートまで降りてからコルク抜き(垂直降下しつつ横転数回)にて1,000フィートに降下し、宙返りを3回、横転1回。場内を周回しつつ高度500フィートにまで下げてから垂直降下の後、3時15分に着陸。
 日記から、神戸新聞、神戸又新日報
4月25日(火) 鳴尾競馬場で飛行大会(2日め)の予定も、天候不良のため順延。
 
神戸新聞、神戸又新日報
4月26日(水) 風は強いが飛行日和となり、鳴尾競馬場で飛行大会(2日め)。
試験飛行を含めて、3回飛行。
 午前10時55分、離陸。二三度、風で煽られ激しい動揺を見せたが、場内上空を3周しつつ高度3,000フィートへ、更に上昇し、離陸7分後に高度5,000フィートに上昇。機首を下げてユラリと逆転を行い、続けざまに20回。高度を3,000フィートまで落とすと、横転1回、ジョリーダンス、横転1回。その後、機首を下げて降下し、地上約一間の低空を競馬場の柵に沿って一周半(「帽子取り飛行」)。上昇してから、風のためかやや傾斜した急転直下の後、11時15分に着陸。
 休憩の後、1日めに使用した機体に 新しいプロペラを取り付けての試験飛行。午後12時49分に離陸。S字飛行を3回、高度3,000フィートからの逆転6回、ジョリーダンス、横転1回、コルク抜きにて500フィートにまで降下し、そこから更に急転直下、高さ1間半で場内を一周。飛行時間12分にて着陸。
 予定より30分遅れで、午後4時39分に離陸。場内上空を四周して、高度5,200フィートにまで上昇。両翼から二條の白煙を曳きつつ、逆転連続9回、横転3回、更に逆転。機首を下げてのコルク抜き、逆転、横転、空中狂乱(ジョリーダンス)、500フィートの低空から横転1回、逆落とし、低空飛行にて場内を一周、空中滑走から、4時46分に着陸。着陸後、軍楽隊による米国歌の吹奏するなか、会場中央で大阪朝日新聞より花環とメダルを贈られる。
 日記から、神戸新聞、神戸又新日報
4月27日(木) 午後7時から、夜間飛行。
花火を持って飛行するため、重量が35〜50lb増加するとのこと。
 日記から、神戸新聞、神戸又新日報
4月29日 大阪より着いたスミスを招いての、帝国飛行協会愛知支部主催の航空後援会が、県会議事堂にて午後6時より開催。聴衆3,000余。新愛知
4月30日 午前6時半着の急行列車にて、豆自動車の選手3名(ベクター・バートランディアス(21)、スティーブ・オリバー(20)、ウィリアム・コエグリー(21))が着。
尚、この日は終日雨のためホテルに缶詰。両親に手紙を書く。
 
新愛知
5月1日(月) 名古屋港6号地(名古屋市熱田東築6号地)で、飛行大会(2回飛行)。北白川宮の台臨あり、観客15万とも。
大正5年5月1日 名古屋市熱田東築6号地  午前9時、ワイルド技師は豆自動車第15号を駆って飛行場に先着、9時15分から飛行機の組立てを始め、10時10分に来場したスミス・豆自動車選手らも加わり、11時半に組立て完了。
 午前11時23分、丸茂警察部長を審判とする豆自動車競走が始まり、オリバー(第8号車),バートランディアス(スミス号)、コエグリー(第2号車)の3名で半マイルレース。丁度グランドは半マイルのため1週のレースであり、オリバーが1位(47秒)。その後3マイルレースがあったが、コエグリー車が故障して戦列を離れ、バートランディアスが一位となる。
 午後12時20分、豆自動車(第8号車、運転手オリバー)との競争のため離陸。地上高50フィートで旋回し、競争を開始、場内を3周。そのまま上昇、場内を3周して700フィートに達し、機首を下げて観客の頭上すれすれを通過し、再び上昇。高度4,700フィートから二條の黄煙を出して、宙返りを6回。錐揉み降下を3回、横転2回、舞踏飛行を4回。2,000フィートの高度から垂直降下して、12時35分に着陸。
着陸後、貴賓室へ進み、北白川殿下より握手、金一封のご下賜を賜る。その後、松井愛知県知事よりの花環を贈られ、坂本名古屋市長らなどと握手。新愛知新聞社からの花も贈られる。
 午後2時18分、オリバー(第8号車),バートランディアス(スミス号),コエグリー(第2号車)での5マイルレース。コエグリーが1位。続いて、10マイルレースとなり、スミスも第15号車で加わったが、15周目に発動機故障でリタイア。オリバーが1位。この後、余興としてタイヤ取替え競争があり、オリバー,バートランディアス,コエグリーの3名で場内を3周後、右後タイヤを取り替えた後に更に3周するもので、コエグリー1位。
 午後4時10分、再び離陸。機上から両手を振って歓呼に応えつつ上昇し,高度4,800フィートに。4時23分、黄煙をだしつつ連続宙返り13回、舞踏状傾斜飛行、キルク抜き、横転2回、逆転2回から急降下、午後4時25分に着陸。
日記から、新愛知
5月2日 雨のため、順延。
尚、無聊のため会場グランドで豆自動車練習せんとして、4名(スミス、バートランディアス、オリバー、カイザー)で出発。熱田高蔵方面で電車を避けようとしたオリバー氏の運転する第8号車が、スリップのため転覆。オリバー氏は軽傷。一行は名古屋ホテルに引き返す。
 
 新愛知
5月3日(水) 晴天となった名古屋港6号地で、飛行大会。2回飛行。観客、約10万。
 午前9時頃、自動車でスミス入場。第六連隊の将校などに説明をし、ワイルド技師が刷毛で上翼にArt Smithを白く描く。
 9時15分、ワイルド技師の乗る第15号車、コエグリーの乗る第2号車の豆自動車が入場。バートランディアス(スミス号)、オリバー(第8号車)も入場し、11時15分に豆自動車競走(1マイル、3マイル)が始まる。
 午後0時丁度、機上の人となったが回転数があがらないらしく修理して、12時13分に離陸。右旋回しながら上昇し、離陸7分後に4,200フィートに上昇。二條の黄煙をひきつつ逆転を6回、狂乱飛行。高度3,000フィートにて、宙返り連続12回。そのまま機首を下げ、観客の頭上をなめながら場内を周回。豆自動車がそれそ追いかけるという構図を見せて、0時26分に着陸。
 入場者が続々と途切れないため、予定を30分延ばした午後4時30分、二度目の離陸。5,000フィートにまで上昇し、4時40分、プロペアを停めての木の葉落としで、一気に1,000フィートを降下。一端、水平に戻した後、またも逆落としで高度3,000フィートに降り、逆転2回、波状飛行、舞踏飛行、横転3回、狂乱飛行、宙返りを見せ、4時43分に空中滑走で着陸。
 ワイルド(第15号車)、コエグリー(第2号車)、オリバー(第8号車)で5マイルレースを実施、最終周回でワイルドの15号車が引っくり返り、左手甲に擦過傷を負うも大した事なし。続いて、スミス(第2号車)、オリバー、バートランディアスによる12マイルレース(スミスが1位、11分30秒)。最後にタイヤ取替え競争として、5周してタイヤ交換後に荒に5周回を、バートランディアス(第10号車)、コエグリー(第2号車)、オリバー(第8号車)で実施するも、第8号車と第10号車に故障がおきて中止。
 また、この夜7時20分より、市内中区の商品陳列館上宝冠閣にて知事、市長、名古屋/新愛知の両新聞社発起による歓迎会が催された。
 
 日記から、新愛知
5月5日(金) 名古屋を午前7時8分発の列車で豊橋へ。十八連隊練兵場で、飛行大会。観衆5万。午後に2回飛行。
 午前10時、豆自動車の競争。
 正午過ぎに離陸、場内上空を周回しながら上昇し、高度3,500フィートへ。機尾に取り付けた煙火に照らされて二條の黄煙をなびかせつつ、宙返り6回、逆転12回、横転2回、狂乱飛行など10数回、暫時高度の下がった500フィートから最後の宙返りを行った後垂直降下して、12時25分着陸。その後、松井知事、山本市長代理と握手し、山本氏から花環を贈られる。
 午後3時再び離陸、高度1,000フィートで場内上空をS字飛行しつつ上昇。高度を4,400フィートにまであげ後尾より黄煙を吐きつつ横転3回、逆転16回、高度2,500フィートにおいてダンス飛行をなし、そのまま降下して地上スレスレで引き起こし、3時15分に着陸。午後6時より、豊橋ホテルで官民合同の歓迎会に出席。その後、夜行列車にて奈良に向かう。
 日記から、新愛知、参陽新聞
5月6日(土) 朝(午前7時過ぎ)、奈良着。
奈良の歩兵第五三連隊練兵場で飛行大会。2回飛行。市長から花篭を贈られる。
また、予定していた豆自動車と飛行機の競争は、練兵場が草繁く凹凸あるを以って中止。
大正5年5月6日 奈良 この朝到着したばかりの新飛行機の組み立てに、ワイルド技師らとともに着手し、4時間で完成。午後0時5分過ぎ、機上の人となり離陸。約5分後に高度5,500フィートに達し、両翼より黄煙をひきつつ宙返り14回、数回の逆転・横転、ジョリーダンス、キルク抜き。高度を数百フィートまで降して、更に逆転、バンキング、逆落としに降下着陸。飛行時間10分。
 飛行後、奈良市役所五井助役令嬢歌子より花篭を贈られ、握手を交換。飛行後の感想を求められ、「奈良の付近は大阪のように煙がないので霞みは立てこめても、上からは大和の平野に散在する村々が水彩画のように綺麗に見えた。それと、大建築物「大仏の屋根」の上の金の魚がサーチライトのように輝いて眼を射た。三笠山は上から見ると柴草を敷き詰めた平らな運動場のように見えました。」と応える。
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 写真は花篭贈呈の模様で、右の女性は贈呈役の五井 歌嬢(奈良市五井助役令嬢、当時は奈良女高師付属高等女学校生)で、ご息女であられる米国在住のペンネーム司 玲子氏が弊Webをご覧頂いたことから提供頂いたものです。左二人は新聞社の方とのことで、右側部分は(五井嬢とスミス)は5月7日付けの大阪朝日新聞(紀和版)に掲載されました。
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 午後3時17分、二回目の離陸。場内を大きく一周して高度3、宙返りよりが逆転、横転、キルク抜き、木の葉落とし。低く降りて、頭上近い宙返りを数回行い、逆落としにて午後3時28分に着陸。

この夜、公園公会堂に於いて市民有志の歓迎会。 
 尚、奈良市よりの寄贈メダルは、6月26日の朝、入院中に札幌の病室に届けられる。メダルは直径2寸ほどの楕円形で、表面は金台に七宝で鳥居に五重塔と鹿角を表し、裏面に金にて欧文が現されている。
 
 日記から、大阪朝日新聞(及び 同 紀和版)、大阪毎日新聞、小樽新聞
5月7日(日) 奈良の歩兵第五三連隊練兵場で飛行大会。終日雨で1回飛行したのみ。尚、雨中飛行は、来日後はじめて。
 前夜来の雨が止まず、午前10時頃より大雨となったが、カーキ色の防水服(本来は、夜間飛行用のものとのこと)を着け、午後12時7分、離陸時の降雨量7mmの中を離陸。離陸後、場内を一周、3,000フィートに上昇し、宙返りを2回、逆転2回。その後、暫時旋回しつつ、12時17分に着陸。
着陸後、直ちに飛行機の手入れ。雨中飛行の感想を求められると、「紐のごとき太き雨を以て叩かれたるこの顔を見て下されば判る」と言うほど、顔や手足は真っ赤になっていたとのこと。
 日記から、東京朝日新聞、大阪朝日新聞
5月8日(月) 奈良の歩兵第五三連隊練兵場で飛行大会。1回飛行。(本来の予定にはなかったものだが、7日夜に後援会との調整で決定されたもの)
 午後12時53分、離陸。高度5,700フィートにて、場内上空の雲に入り、機影を消す。しばらくして出現した後、雲の薄いところで2回の宙返を含んで12回の宙返りと横転を行い、木の葉落としの後、午後1時6分に着陸。
 
午後3時、列車にて京都に着。東山都ホテルに投宿。
 
 日記から、東京朝日新聞
5月9日 予定していた京都駅前空き地での飛行大会開催が適わず(その理由は不明)、自動車を以って深草より八幡まで飛行場の検分。
 この日、京都師団を訪問し練兵場の借用を申し込むが、興業的性質を帯びていると拒絶され、「観覧者より一切の金銭を徴収せずに一般に公開」を条件に、1日だけ借用を許される。
また、京都市では、名古屋、奈良の例をもってスミス飛行会に400円を補助すべしとの議論もあったが、悪例を残すとしてメダルの贈呈にとどめることに決定。
 
 日出新聞
5月11日(木) 京都の深草練兵場で飛行大会。1回飛行。
大正5年5月11日 京都  Special Thanks to Mr. John Lofgren 大正5年5月11日 京都  Special Thanks to Mr. John Lofgren  午後2時、自動車で練兵場に来場し、豆自動車にて場内を検分。
午後2時50分に離陸し、離陸後5分に5,000フィートに。その後、3,800から4,000フィートの高度を保ちつつ、場北の火薬庫を避けて京都市を上空から訪問。七条駅を通過後に場内に引き返し、高度5,000フィートにて両翼から二條の黄煙を出しての宙返りを12回。2,500フィートにまで降りてキルク抜き、更に1,000フィートで横転3回、木の葉落としから急転直下して、午後3時5分に着陸。
 飛行後、井上京都市長から記念メダル、森田京都新聞社長から花環を贈られる。その後、機上に上って観客の歓呼に答え、機上より観客をカメラに修めて、自動車にて京都ホテルに引き上げる。
 日記から、日出新聞
5月12日 午後2時版、京都から大阪に着。 大阪朝日新聞
5月14日( 大阪西区市岡中学校東広場にて、飛行大会。15日も予定され、入場料は、普通一人15銭、学生5銭で、場内に4万、場外の無銭見物者は15万とも。
尚、この飛行大会は、『日記から』には記載されていない。
 午前10時から飛行の予定であったが、場内に設けた競争路が柔らかいため飛行機と豆自動車の競争はできないとして、午前10時40分に余興の人力車競争、その後、豆自動車(8号、10号)2台の競争、第2回人力車競争、自転車競走と続いたが、スミスは12時になっても姿を見せず。次第に怒号が起こり始めるが、延期理由を示さずに車夫競争などを繰り返すので騒ぎになる。主催者側からスミスの滞在ホテルに電話をかけ、午後1時からの飛行の段取りにしたが、制止を振り切って東の観覧席の一角が崩れ、雪崩を打って場内に。「早く飛べ」「入場料を返せ」と怒号が飛び交い、一人が「飛ばない飛行機なら壊してしまえ」と叫び、投石などが始まる。ワイルド技師ら関係者は飛行機の保護に努めたが、野天のこととて叶わず。ワイルド技師はエンジンにズック製カバーをかけたが、頭に深手を負い、ちょうど駆けつけたスミスも擦過傷を頭部に負う。来場の長岡中将も「必ず飛ぶから、元の席に戻ってくれ」と帽子を振って制止を計るも叶わず、憲兵及び警官の召集を依頼。その来援を得て、長岡中将が機上に立って一場の揶揄演説を行い、飛行機周りの群集を押しのけたが、既に機体には上翼に3個、下翼に5個の穴があり、プロペラも一端が一尺ばかり裂け、尾翼も損傷。急遽、鳴尾まで飛んで修理することとし、1時50分プロペラを取り替えて、2時15分に離陸。
 スミスは「最初から午後1時半からの注文だった」とし、主宰者側も「午前10時と広告したのは、開場時間のこと」と嘯(うそぶ)いた。
興行者 雨森茂市大阪朝日新聞
5月16日 午前10時34分、大阪を発ち、富山に向かう。大阪朝日新聞
5月17日(水) 富山県富山市の練兵場にて、猛雨の中で1回飛行。飛行時間約8分、使用機は「カーチス式第2号」。午後の2回目の飛行は、密雲が低層にあるため中止。富山での再飛行を約束。
 
 日記から、富山日報
5月20日(土) 岐阜県岐阜市の練兵場にて、2回飛行(18日、19日と雨のため順延)。
服部岐阜市長からの歓迎の辞、市からの金メダルを贈られる。
大正5年5月20日 岐阜 午前中は11:07分に離陸、2000フィートで場内上空を一周、11:17には4000フィートの上空に於いて二條の黄煙を吐きつつ、20回の宙返り、8回のキルク抜き、3回の横転、5回のジョリーダンス等を披露し、11:21に1,000フィート上空のから急転直下して着陸。

 
 日記から、大阪朝日新聞(東海版)
5月21日( 石川県金沢市野村練兵場にて飛行。午後に2回飛行、雲が低く低空飛行に留まる。
大正5年5月21日 金沢 午後1時12分滑走を開始、離陸後上昇し、700フィートに至るも雲が低いため更なる上昇も叶わず、離陸後3分にて1,200フィートに。しばしば雲中に機体が隠れるもが、ここから逆転(5〜6回)、傾斜波状飛行、垂直降下して高度25mにて水平飛行、その後場内の観客上空を低空にて通過し着陸。飛行時間9分2秒
飛行後、太田知事(帝国飛行協会石川支部長)より花瓶を贈られる。その後、緑色の豆自動車に乗り込み場内を一周、その後技手ワイルド氏他2名は緑、赤、青の豆自動車にて競争を見せる。

大正5年5月21日 金沢 午後3時2分、第二回目の飛行。離陸後に急上昇し、高度1000フィートに。尾翼を下にして垂直になる空中の舞踏、逆転2回、横転4回、印度舞踏飛行(ジョリーダンス)、キルク抜き、落下的低空飛行などを行い、7分の飛行時間で着陸。
 飛行後、櫛引支配人が「今日の低空飛行は、鳴尾でも名古屋でも今朝のよりもずっと高かった」と語る。
尚、新聞記事では技手としてワイルド、ユエグリー、オリバー3氏の名前が見える。また、当時北陸新聞の記者だった東善作が本飛行大会を機会に、飛行家を目指す。

 
 日記から、北国新聞
5月22日(月) 石川県金沢市野村練兵場にて、好天の下で飛行。午後に2回飛行するも、観客は昨日の1/3に留まる。
 午後1時6分離陸滑走を開始し、高度800フィートにて場内を2周しつつ上昇、離陸後約10分にて最高高度4700フィートに。右ハンドルのボタンを押すや否や、下翼両端のスモークポットは発火・発煙、その二條の煙を引きながら、7回の連続逆転、横転・逆転を12〜3回、コルク抜きを2回、螺旋系の回転を行い、垂直降下して着陸、飛行時間13分。飛行後、金沢市の村田助役より感謝状と金メダルを贈られる。
 2回目は午後3時に発動機の推進力検査を行いその結果、回転計の故障を発見し修理。
3時15分に離陸、7分後に高度3800フィートに達し、黄煙を引きつつ逆転、横転、ジョリーダンス、錐揉み飛行。離陸後10分後に1800フィートの高度より急転直下、観覧場の屋根すれすれに滑走して、着陸。
 日記から、北国新聞
5月23日(火) 富山県富山市の練兵場にて再度の飛行。午後に2回飛行。観客数、約15,000人。
 午前12時過ぎ、列車にて富山に着。
 午後1時55分、離陸。高度50フィートにて場内を飛行、城山の空を旋回、離陸後4分で2,500フィート、8分後には4,000フィートに。片翼端より花火仕掛けの黄煙をひきながら、宙返りを2回、逆転9回、横転4回、ジョリーダンス、逆転4回で高度300フィートへ。500フィートに上昇してから急転直下から着陸。飛行時間、約17分。
 一回目の飛行後、稲垣富山市長より金メダルを贈られる。また記者団には以下と語る。
「前回の飛行は雨と雲で生きた心地のなかったに引き換え、今日はこの上もない飛行日和で快晴ですから実に愉快でした。4,000フィートの高空に上った時は全ての雲は却下に集まり、雪を頂いた日本アルプスの美麗なこと言語に絶し、越中の平野は既に水田となって太陽に輝いて白く見え、神通川は恰も銀の針金を伸ばしたように白く、その中に包まれ黒くかすん富山市は恰も絶海中の孤島のようで実に一服の図画であります。空中における快中の快は、日本海より吹きくる北西の風が日本アルプスに遮られおるため、練兵場頭の気流に大変化をきたし、渦を巻いて地より空に流れるので、飛行機は航せずして次第次第に上空に上っていくのでありました。」
 午後2時58分、離陸滑走開始。離陸7分後の高度4,000フィートから、翼端より一條の黄縁を曳きながら逆転を1回。続けて6回の横転・逆転から急転直下し、観客の頭上をかすめながら、両手を振って観客に答えつつ場内を一周して着陸。
 午後6時40分発の列車にて、大津へ向かう。
 日記から、富山日報、北陸政報
5月24日(水) 滋賀県大津市の練兵場にて、午後に2回飛行。
 第一回飛行は午後0時30分過ぎから飛行時間約15分、午後3時半過ぎよりの第二回飛行にてOTSUの写字飛行を行うも、黄煙薄く観衆からは明瞭に見えず。着陸後に大津市の書家三戸氏令嬢の佐智子さんより花輪を贈られる。

 日出新聞、大阪朝日新聞京都附録
5月27日(土) 岡山県岡山市の練兵場にて、雨の中1回飛行1回。
大正5年5月27日 岡山 午後2時40分飛行機を引き出し発動機試験。その後離陸し高度7〜800mにて横転、逆転、木の葉落としを続けざまに行い、観衆の頭上をかすめるような高度にて波状飛行。再上昇して空中滑走に移り、場内を一周して着陸。飛行時間約8分。

 
中国民報社日記から、山陽新報
5月28日( 岡山県岡山市の練兵場にて、午後に2回飛行。
市よりメダル贈呈の予定も製作が間に合わず、目録を贈られる。
 正午に発動機の牽引力試験し離陸、会場を2〜3周して4分後に2800フィート、5分後に3500フィート、更には4000フィートに。そこからキルク抜きを9回、錐揉り、横転、逆転、ジョリーダンスを行って、12時10分着陸。
 2回目は、午後2時30分に離陸。5分後に3800フィートに達した時、写真機を取りだして機上より練兵場を撮影。その後、宙返りを2回、横転、決死直下、1500フィートから500フィートに降下する木の葉落としを行って、2時40分着陸。

中国民報社日記から、山陽新報
5月29日(月) 広島県広島市西練兵場で飛行大会、午後に2回飛行。
第一回目の飛行後、大平楽社および佐伯シマ子より花環を贈られる。また、「広島は川もあり、街路も立派で綺麗な都会であると思います。飛行家が上空の気流を云々する必要はあるまいと思っております」と記者団に語る。この日は、国泰寺村の米国人フェアフォード氏宅での晩餐会の後、宮島に渡る。
大正5年5月29日 広島市西練兵場
 午前9時過ぎワイルド技師らが機体組立てに着手、その途中、豆自動車競走あり。正午の号砲の頃、機に乗り込み、午後零時1分、離陸。手を振りつつ場内を一周し、その後上昇、5分後には高度3,200フィート、広島城上空に達して3,800フィートに。左翼より白煙を引きながら宙返りを連続8回、逆転、横転、木の葉落とし、逆落とし、急転直下により観客の頭上をかすめて着陸。飛行時間9分。
 午後は3時15分より豆自動車2台の競技をはじめ、3時35分に離陸。3,800フィートまで上昇し、宙返り、逆転7回、さらに逆転3回、横転4回、逆転4回、急転直下し高度20フィートにて場内を一周し、午後3時45分着陸。
 尚、2回目の飛行中、写真器のレンズを飛行機より落とす。

広島市飛行後援会日記から、中国新聞
5月30日(火) 広島県広島市西練兵場で、昨日に引き続き飛行大会。
この日早朝より機体の塗替えを行い、支柱も翼下面も深紅に、翼上面には文字を白で書き、それ以外は黒に。
 午後0時37分、離陸。上昇しながらS字飛行を見せ、5分後に4,700フィートに。煙もなしに逆転を6回、機首を上に向けたまま発動機を止め落ちること500フィート(所謂、テールスライド)。高度2,500フィートにて発動機を動かして、逆落とし後にそのまま着陸。飛行時間、約8分。(この日のテールスライドは「日本に於て初めて完全に行ふ」とのこと)
 2回目の飛行は、豆自動車競走の後、午後4時20分から35分まで。4,000フィートの高度から逆転7回、テールスライド、横転、逆転、ジョリーダンス、高度800フィートから発動機を停止して急転直下、台覧の山階宮に表敬して低空飛行で場内を2周。

広島市飛行後援会日記から、中国新聞
6月2日(金) 東京の帝国ホテルで催された歓迎会に出席。午後は早稲田の大隈重信私邸で飛行協会主催の茶会に出席。
 
 
6月3日(土) 東京府青山練兵場(入場口は青山一丁目、及び稲の町停車場)にて飛行大会の初日、観客8万人。来賓に蜂須賀侯爵、土方伯爵、渋沢男爵、尾崎法相、山川東大総長、田中館博士ら、観客に黒田清輝画伯も。入場料は後援会の会員費(?)として、名誉会費は5円、特別会費は1円、普通会費が10銭。
2回飛行、飛行機は2台用意。
 午後2時より前後2回の豆自動車競走。午後3時に離陸。離陸後、急上昇して場を右手に旋回、旋回2回して離陸後5分で高度1,200mに到達。翼の一端から黄煙を吐きながら宙返り、黄煙の渦巻きの中に極度の小円を描いての逆転連続10回、横転3回、逆転6回、横転2回。高度300mに降りて宙返り3回の後、3時10分に着陸。渋沢男爵、尾崎法相、長岡中将らと握手。
 2回の豆自動車競走後の午後4時半、二度目の飛行開始。高度1,000mから連続4回の逆転をしつつ800mに降り、機首をまっ逆さまに立てて独特の独楽飛行を演じながら500mに降下、更に直下飛行にて地上5mに降りて水平に戻し、高度1mで場内を半周。4時41分に着陸。
追浜海軍飛行将校から直径5cmの大銀杯を贈られる。
 日記から、東京朝日新聞
6月4日(日) 東京府青山練兵場にて飛行大会の中日。午後に3回飛行。
午後1時までに入場者10万人。近衛師団下士卒2,000名、追浜より海軍飛行将兵全部、横須賀より在港軍艦乗組員水兵1,500名あり。
 午後零時半、赤色の自動車に乗って来場。長岡中将はそれを見て、馬車を駆って青山御所に伺候、本日の飛行について言上。皇太子殿下、淳宮、高松宮から、お言葉を貰う。
 午後2時、通訳の村田中尉の赤旗を合図に離陸。場内を3周し、5分にして高度1,200mに上り、二條の黄煙を曳きつつ10回の宙返り、空中舞踏。高度500mからキルク抜き、宙返り飛行。青山御所上空に至って、横転2回、両手の手放し飛行にて敬意を表す。台覧の三殿下は、長岡中将の説明を受けつつ、挙手にて答礼。高度400mから150mに急降下して、2時13分着陸。長岡中将は御所を退出、会場に戻り、殿下が殊のほかご満足に思し召され、金一封のご下賜金を賜る。
 午後3時、4時半の2回にも、逆転、横転、キルク抜き、大波状飛行を演じ、ご台覧に供する。第2回飛行の終わりには、高度2mにて豆自動車と競争。
 本日はご下賜金のほか、国民飛行会、京都市立第二商業学校、時事新報よりの金メダルを贈られる。
 日記から、東京朝日新
6月5日(月) 東京府青山練兵場にて飛行大会の最終日、午後に2回飛行。
また、午後8時から夜間飛行、両陛下も台覧。
大正5年6月5日 日比谷から見た夜間飛行 ワイルド技師らは日没前に仕掛花火と、機首に青灯(ヘッドライト)/翼両端に赤灯の設置を完了し、日暮れともに深紅の豆自動車で会場に着。新月のこの日、七個の大かがり火を設け、午後7時50分に機体を引き出して発動機点検、8時8分に離陸。高度1,200mで、花火に点火。下翼両端より火炎を奔出。大円を描きつつ、宙返り、逆転連続3回。黒雲中に入って姿を消したが、1,000mの高度に姿を現して、逆転、また逆転の連続11回。飛行時間12分にて、8時20分に着陸。
 この夜、日比谷を中心に二重橋から丸の内一体は群集で覆い尽くされ、洲崎海岸でもよく見えたが、浅草や上野、御茶ノ水では見ることはできなかったとのこと。
 日記から、東京朝日新
6月6日(火) 皇居上空近くで御礼飛行。大正天皇の馬術練習にて馬場に出御の時刻に、飛行。
大正5年6月日 二重橋上空 午後1時頃より宮城周辺に人が集まりはじめ、午後3時5分に会場上空へ到着。三宅坂上空400mから上昇し、霞ヶ関、桜田門にて高度1,200〜1,300mに達して、二重橋から三日月堀より馬場先門の上空にかけて大円を描き、二條の黄煙を吐きつつ宙返り8回、尻落としの格好にて横転1回、螺旋降下200mを行って、宮城を横断、五番町上空で機首を巡らし青山練兵場へ到着。着陸は、3時20分。
 日記から、東京朝日新聞
6月11日( 宇都宮 宝木練兵場にて飛行大会。午後に2回飛行。
梨本宮殿下、同妃殿下の台臨あり、目録一封を下賜。市からも銀製七宝入りメダルを贈られる。
夕方、仙台に向け出発。
 一回目は14:30に離陸、上昇旋回大小2回半の後、1,200〜300mの高度から二條の白煙を引きつつ下降しながらの横転数回、そのまま宙返りに転じて7回、木の葉返しと呼ばれる螺旋降下で200mにまで降り、300mに上昇後に得意の垂直傾斜にて下降、14:50分に着陸。
 二回目は、肩翼から黄煙を引きつつ1200〜300mから逆転横転、錐揉み降下、高度4mの超低空飛行、一旦会場を出て傾斜飛行しながら会場に進入し場内を一周、約15分の飛行を終える。
 日記から、下野新聞
6月12日 仙台の仙台練兵場にて飛行大会の予定も、雨のため延期。

大正5年6月13日 仙台到着の一行 
 
 
 北海タイムス
6月13日(火) 仙台の仙台練兵場にて飛行大会、1回飛行。
入場料は特等1円、普通は20銭。
翼上にカイザー助手を乗せ、翼上搭乗飛行を行う。
大正5年6月13日 仙台 大正5年6月13日 仙台
  大会詳細は To Be Supplied。
 日記から
6月14日(水) 仙台練兵場の地盤は悪いため、宮城野練兵場へ会場変更。2回飛行。
この日も翼に助手を乗せて飛行。
 大会詳細は To Be Supplied。
 午後8時45分、北海道に向け出発。
 日記から、東京日日新聞
6月15日 午前11時30分、函館に入港。午後12時45分発の列車にて札幌へ向かう。
午後11時25分、札幌駅に到着。花火、北海タイムスからの花環などの歓迎を受ける。
北海タイムス、小樽新聞
6月16日(金) 北海道札幌市北20条の京都合資会社所有地(運動場)にて、飛行大会。観客、一万数千余。
2回目の飛行の離陸時、発動機停止により墜落。
大正5年6月16日 札幌(第一回飛行) 朝から秒速15m/s以上の風の中、午後2時に離陸。急角度の螺旋上昇にて、離陸後8分で高度2,500フィートへ。機尾より一條の茶褐色の煙を引きながら逆転6回、ジョリーダンスを行って400フィートに降下、更にが逆転2回、横転2回。続いてキルク抜きにて急降下し、空中滑走の後着陸。着陸後、阿部札幌区長より、金メダルを贈られる。

大正5年6月16日 札幌(第二回飛行) 2回目は午後4時からの予定だったが、風速が増してきたために予定を繰り上げ、2時25分に滑走開始。会場南側の上空50mにて、発動機が停止。進行方向の観客を避けるため右に急旋回、風に煽られて機体右側から墜落し転覆大破。スミスは放り出されて気絶。
 直ちに区立札幌病院に運ばれ、右足大腿を2ヶ所骨折と診察され手術、ギブス石膏副木包帯を施されて、上等第五号第四室にて入院。面会謝絶。事故の影響か、北海道上陸以降の記憶が定かでなくなる。

大正5年6月16日 札幌(事故) 事故機の写真を見ると、機体は転覆し、座席が据え付けられていた首輪への前部は折れ、座席やラジエータはなくなっている。事故直後に長岡中将から両親へ「ご令息事故」の、その後札幌区長から「ご令息無事」の電報が打たれた。
 尚、『日記から』には16日の飛行は、記載されていない。
 午後7時、主賓を欠いたアートスミス、長岡中将の歓迎会(日米協会主催)が、札幌の豊平館で行われる。

北海道後援会日記から、北海タイムス、小樽新聞
6月17日 寄贈された夏蜜柑を少々口にする。午前中に浣腸したもよう。
北海タイムス
6月18日 朝刊にアートスミス慰問の目的とした慰藉金の募集開始の趣意書が掲載される。発起人には10名の個人と、北海タイムスを筆頭に、北海道新報、小樽新聞、函館毎日、北海道旭新聞の北海道メディアに、日米協会の団体の名前が見られる。
 総支配人の櫛引弓人、札幌に到着。小樽(18日に小樽築港で予定)や函館の飛行大会も含めて、山形、水戸、大阪、高松、松江、姫路、福岡、久留米、熊本の各飛行大会の調印済み契約を解除。
 またこの日、札幌天使病院の外人看護婦2名を臨時に雇う。
 
北海タイムス
6月19日 午後9時半、ワイルド技師が東京に向け札幌を出発。(22日横浜発の汽船にて帰国し、アートの両親に詳細を報告するため)
メナスコ技師も帰京。
 
小樽新聞
6月20日 北海タイムス、小樽新聞ともに、骨折箇所のX線写真をこの日付けの朝刊掲載。
 この日、主治医の札幌病院の秦氏は、軽傷ではあるが頭蓋底骨折もあったと公表。大腿部骨折と合わせて発表しては世間を驚愕させてしまうとの配慮から差し控えていたもの。
 また、札幌病院は治療代、入院費などの一切を受けないことも発表。
 
北海タイムス
6月23日 大腿部は経過良好につき、秦主治医よりギブス石膏包帯を施される。石膏が固まれば歩く練習ができるようになると聞かされたアートは、カイザー技師を顧みて「万歳」を叫ぶ。
 
北海タイムス、小樽新聞
6月24日 北海タイムス出版部、事故前後の写真を発売開始。
 内容は、(一)風迅き空へ第二回飛行を試みんとて、(二)突如、三十米突の低空にて発動機の爆音鈍る、(三)機能を全く停止す機首は急角度群衆の上より転せられぬ面して矢の如く地上へ、(四)万事休す矣。鳥人は傷つき微笑みを含みて地上に横たわる で、コロタイプで、安絵葉書とは違うと広告にある。四枚一組で送料とも1円50銭。
北海タイムス
6月25日 小樽新聞社から銀杯を贈呈。銀杯には新聞社名と「贈 アートスミス君」とあり。
 また、札幌市南一条西の維新堂書房、墜落惨状を含んだ絵葉書を発売。
 内容は、(一)愛嬌溢れるスミス氏の笑顔、(二)札幌第一回冒険飛行の壮景、(三)第二一回冒険飛行離陸の瞬間、(四、五)墜落せる機体の惨状 で、五色輪郭付特製五枚一組、10銭。
この内の(二、三)が6月16日の覧で掲載したもの。
小樽新聞
6月26日 朝、奈良市よりのメダルが病室に届けられる。
 
小樽新聞、北海タイムス
6月28日 午後3時までで締め切った慰藉金、北海タイムス社扱いで合計864円8銭。拓殖銀行取り扱いは470円64銭。
 
小樽新聞
7月10日 上京。
 
 日本飛行機物語 首都圏篇
7月20日 退院。横浜からエンプレッツ・オブ・ルシア号で帰国の途に着く。
回った都市15市、累計飛行回数56回。
 
 日記から、日本飛行機物語 首都圏篇