スミスは、飛行大会を盛り上げるため、Baby Carと呼ばれる小さな自動車(豆自動車、レースカー)を持ち込んでおり、大きな会場では飛行機とのスピード競争をさせたり、豆自動車同士のレースをさせたりしています。
参考文献[1]では、大正5年の来日時の5台のBaby Carが写真で認められます。
・メルセデス(#32)
・フィアット(#不明)
・スタッツ(#8)
・プジョー(#9)
・?(#15)
入手した絵葉書では#4(下参照)や#2のもありますし、右絵葉書のように、車体番号がない(代わりに、"ART SMITH"と記入)豆自動車(大正5年4月10日付 東京朝日新聞に「腹にアートスミスと書いた赤塗りの豆自動車」という記事があります)もあります。
右はスタート地点からレースを開始しようと走り出している豆自動車で、左から#32,9,2,8の各号です。#9には「SMITH 2」、#8には「SMITH 5」とナンバープレートに入っています。
参考文献[4]では、大正5年の時は豆自動車は計10台で、各車は色が全て違っていたとのことですが、大正5年3月19日付東京朝日新聞では11台と紹介されています。参考文献[2]では、日本向けの船(「地洋丸」)の中にショップを設け、そこで製作していたとのことです。
アートスミスはBaby Carの運転手を"Baby Boys"と呼んでいたようです。BabyBoys達のツナギには、前述のメーカー名が描かれていました。
長き友人となるVictor Bertrandias(昭和9年GA43クラーク旅客機の操縦社として再来日し、その後、ダグラス社パイロットとして頻繁に来日、後の陸軍中将)、1916年の来日中にアートから操縦を習ったAl Menasco(豆自動車製作者、1917年の来日時も同行、後のメナスコエンジン製造所/メナスコ発動機の創設者)、スティーブ・オリバー、ウィリアム・コエグリー、カイザー、ワイルド、エスノラスコらの名前が分かっています。
参考文献[3]では、大正5年の時は「メナスコを含むレーシングカードライバーは6名」となっています。