飛行家、アート・スミス。本名 Arthur Roy Smith.
1890年2月生まれ。米国インディアナ州フォートウェイン出身。父は大工。
母親の影響か、熱心なキリスト教信者で、酒は嗜まかったのみならず、札幌での事故後も服薬を拒みがち(櫛引総支配人の談話、大正6年6月27日付け小樽新聞)だったとのこと。
1915年の初来日時は23歳と伝えられているが、参考文献[1]によれば、1890年生まれと彼の両親が語っており、初来日時は、満25歳だった模様。
参考文献[3]によれば、身長5'6''(約168cm)とあり、そう小さいように思えないが、もっと小さいような印象を写真から受けるほど小柄である。愛嬌のある笑顔と合間って、人気が出たのもうなずける気がする。
20歳の時に飛行家を志して飛行機製作を開始。一家破産などの労苦を克服し、1913年3月、米国発行の万国飛行免状238号を取得。1915年、サンフランシコ万博にて、飛行家としての名声を得るにいたる。飛行機製作を決意する場に同席していたとされる女性と、彼女の両親の反対に(世界初とされる)飛行機を用いて「かけおち」をも行い結婚するも、名声を得るに従い亀裂が入り、来日直前離婚。
1916年(大正5年)3月来日し、4月青山練兵場を皮切りに日本ツアーを開始。全国15都市を回るも、6月札幌で墜落、足を骨折し、帰国。
1917年(大正6年)4月、再来日。前回以上に精力的に各所を回り、10月帰国の途につく。下は、大正6年7月29日の新潟新報に掲載された彼の筆跡(毛筆サイン)
左の「弁慶縞の鳥打帽を逆さに被り」は、彼のトレードマークになったものです。
彼は、飛行時にも背広姿であり、鳥打帽のまま飛んでいました。
なお、「鳥打帽を逆さに被る」は日本の大衆・マスコミに与え影響は大きく、これでないと飛行家らしく映らなかったようです。
日本からの帰国後、第一次世界大戦の米国参戦を機会に陸軍航空隊に入り、訓練と試験飛行の任につく。
戦後、航空郵便サービスに勤務。1926年2月12日、その夜間飛行中に墜落。享年36歳。
出身地のインディアナ州フォートウェインには国際空港があり、小さいながらもそこに記念館(展示室)がある模様。
また、アートスミスのメモリアル公園(彼の製作飛行機第1号が初飛行を試みた場所)があり、彼を称えた記念碑があるとのこと。
全くの蛇足ですが、私の祖母(物故)が、新潟県高田市(大正6年7月)での飛行を見ています。
飛行内容は覚えていないのですが、「目が青かった」と教えてくれました。ただ、アートの目が青いかは?で、絵葉書を見るかがぎりブラウン系のように思われ、祖母は助手(メナスコ氏?)を見たのであろうと思っていました。
しかしながら、稲垣足穂の作品に「碧眼の・・・」というのがあり、アートスミスも青い眼だったようです。